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href="http://www.satoshi-nitta.com/">新田論先生の「 こころの琴線(死への誘い)」より---------------------

 

第四十八章 知ること・理解すること

わたしたちは知性を知識だと勘違いしています。
知性の本質は理解することであり、知ることではありません。
では理解することと、知ることの違いは何でしょうか。
知ることは、実践することではありません。
従って、実践が後に続かなければ意味はない。
つまり、知ることとは頭だけの知識に他ならない。
理解することは、実践が伴っている。
従って、理解即実践である。
つまり、理解することとは体全体の知恵に他ならない。
文明を発達させてきた現代人は、知ることが知性の本質だと勘違いしてきたようですが、知ることだけでは不充分、否、却って、知るだけでは理解する阻害要因になっていると言った方が正しいでしょう。
体に覚えさせてはじめて知性を発揮したことになるのに、頭で知っただけで知性を発揮していると思い込んでいるのが、西洋がリードしてきた文明社会なのです。
まさに、二元論の好いとこ取りの発想です。
知性を知識と知恵の功罪両面に区分けしたことが二重の錯覚に他なりません。



平成18年4月23日     新 田   論

 

----------------------新田論先生の「心の旅の案内書」より----------------------

知って 解った

知って やった

やって 知った

は ある

知って 解った

も ある

だが 解って 知った

は ない

解ることは 知ることからの

一方通行



知ることと理解することの違い


知識を経験にまで引き上げるにはどうしたらよいか。
知るということは理解するということではない、たしかに知るということは必要 なことですが最終のゴールではない。知識のレベル、記憶のレベルで止まらず、あなた自身の経験になってはじめて先伸ばし人生をストップさせ、はじめてあなたの火の車をゴールに辿らせることができる。
「知る対象と、それを知る者、その向こうにその両方を同時に観察している者がいる、それがあなたです。それを自己想起という」
知るということは、見るということの次のプロセスです。
見るという行為、見られる対象、その向こうにその両方を見ている者がいる、それがあなたですと前に言いました。
何をあなたは知ったのですか。
知ったあなたと、知った対象そのものです。その架け橋が知識です。
ですがあなたはいつも知ったものだけに注目して、そこに知ったあなたがいることを忘れている。知識が、知ったあなたを想い出させる架け橋だということを知らない。せっかくそこに架け橋があるのに、あなたは渡ろうとしない。渡らない橋は意味がない。それがあなたの無意味な知識です。
渡るという行動があってはじめて橋の価値が生まれるのです。
昔、江戸幕府を開いた徳川家康は大井川にあえて橋を架けなかった。東の江戸と西の浪花との間での人の交流、情報の交流を制限するためです。余計な知識(江戸幕府にとって余計なだけで、一般のひとたちにとっては大事な知識なのですが)を民衆に持たせないためです。
かつての共産主義社会とまったく同じ政策です。国内を安定させるためだと徳川家康は思ったのですが、国内ではなく、徳川家を安定させるためが本音です。その証明が大井川に橋を架けなかったことです。国内を安定させることと、大井川に橋を架けないこととどういう関係があるのでしょうか。まったく関係ありません。
かえって民衆は生活に困る。民衆の生活に困ることをする政策が安定の政策だというのですか。それは強制による渋滞です。情報閉鎖です。決して自然の道理にかなった安定ではありません。これは独裁ではなく独断、独善です。
織田信長は独裁です。
独断、独善はその個人によって立つところのものであり、独裁はその公共によって独りたつところのものであります。
彼はそれまで神社、仏閣の収入源であった関所を全部取りはずして、民が自由に移住、旅を出来るようにしました。そしてそのために治安をよくしました。それによって大量の情報が自由に伝わるようになりました。情報開示です。
共産主義国家がなぜ崩壊したか、情報閉鎖の壁を情報開示が打ち破ったからです。
ですが壁の中でいるのが安全です、安定だと人間は思っている。
安全、安定を望むということ。これがエゴの巧妙なトリックで、あなたは毎日、ふわふわと漂う雲の上に乗って生きている安定だということに気がつかないのです。足下の雲はあっちに行ったり、こっちに来たり、ときには消えたり、現れたりするのに、あなたはまったく気づいていない。情報閉鎖を自分で自分にしているのです。
せっかく架けた知識の橋を渡らないと本当のことが見えない。
知る者がこちら側、知る対象があちら側、その間に知識という橋が掛かっている。
この橋の真ん中で立ち止まって下を見てみる。
そこに見えるのは深淵な谷底です。存在そのものです。神とも言っていい。宇宙とも言ってもよい。その深淵な谷底を橋の真ん中で見ているあなたが観察しているあなたです。深淵な谷底はその観察者のあなたにだけに姿を見せてくれる。
ただし、知識という架け橋の真ん中でだけです。
グルジェフはこれを自己想起と言った。
釈迦はこれを中道の精神の教えで、八正道の正見と言った。
自己想起・正見・自己客観視。
あなたが気に入ったものを選べばよい。

平成十二年九月二十日 新 田 論